久しぶりに日月神示を読んだ。
日月神示を読むときは『声を立てて』読む。神示にも書いてあることだ。
スピリチュアルな話になるけれど、自分と自分に付いている守護霊とか霊団とかにも聞かせるように読み上げると良い……らしい。
例えるなら神棚で祝詞をあげるように。仏壇でお経をあげるように。神仏に奉上する感覚で音読をする。黙読はしない。個人的にこの神示は祝詞に近いものだと勝手に思っている。
(※実際には近所迷惑になるから小さい声で読み上げているし、個人的にはただただ音読している感覚でやっていて、守護霊霊団神仏に奉上するように読んではいないのだけどね。この神示を守護霊霊団神仏に読み上げることが守護霊霊団神仏に対する攻撃にならないだろうかという不安があるから......。そのくらいインパクト強い自己責任書物なのです......。俺は今でもこの書物を毒物の類だと思っている。狂信的に他者に押し付けて良い書物ではない。それが例え目に見えない存在相手だとしても......)
自分にも日月神示を黙読する時代はあった。
出会った当初はネットで掲載されている日月神示を三周黙読した。
そして、解釈を間違えて色々と酷い目に遭った。
それからは音読するようになって、やはり音読するのが良いと気づいた。
声に出して読むことで黙読では得られない言葉のニュアンスを感じ取ることができる。
このニュアンスを感じ取れるかどうかで読んだときの解釈も違ってくる。
頭で考えて読むよりも、意味がわからなくても良いからお経を読み上げるように読んでしまうほうが間違いは少なくていい。
さて。前置きは済んだ。本題に入ろうか。
俺はしばらく日月神示は読んでいなかった。
でも嫌なことがあったりすると教えを求めて読んだりもする。今回もそういうこと。
困ったことの解決策を求めて、現在所持している完訳日月神示のページをめくり、目にとまった文章を読み上げる。(※俺はこのやりとりを会話と認識している)
でもね......。毎回会話が噛み合わない。
今回は職場にいる困った年上の後輩からストレスを溜めることを強いられ疲れてきているので日月神示を開いてみたわけだけども......。以下会話です......。
俺「Aさんという人について困っています。対処法を教えてください」
神示「その人その人によって、食物や食べ方が少しずつ違う。身体に合わんもの食べても何もならん。かえって毒となるぞ」(夏の巻 第十九帖の一節)
どういうこと!!!!????
IQに差がありすぎて会話が意味不明なんですけど!!!???
これが新訳聖書でやるとまだ噛み合う会話になるんだけどな......。
毎回こういう感じなんだよね......。
強いて言えば、俺はAさんとの関係性をも人間向上の糧として食べようとしているから、お前には毒にしかならないから泥中の蓮のような真似はやめろと言われているのかもしれない。かもしれない。かもしれない......。でもこれって俺の勝手な解釈なんだよなー......いいのかなー......。
神様に助けを求めてもいつも最終的には自分で自分を助ける行動を起こして解決に至る流れを強いられるから、これはAさんとは距離を置くよう努めて、できれば縁を切るよう努力しなさいということなのだろうか......。
でも個人的な勝手解釈をして痛い目を見てきているのは今に始まったことではないから、勝手に解釈して勝手に動くのはもう嫌なんだよなー......。この神様の御意思を無視して我を通すのが怖すぎる......。この神様に比べたら神社の神様はめちゃくちゃ優しいぞ......。
というわけで。
日月神示に悩み相談をしても、今の俺では毒にも薬にもならない結果に終わるというお話でした。けど、読むとなんだか落ち着くのでつい読んじゃうんだよね。