ななころびやおき

気の向いたときに趣味で投稿します。ゼロ戦は21型が一番好き。

友達ができない話

この年齢になるとなのか、職業柄なのか、社会人になると出会いが減るということなのか。

 

僕には友達がいないと思う。

 

子供の頃は当然のようにいた。そりゃ学校に通っていれば同い年の人間達がいるのだから、できるよね。

 

しかし。いまは居ないと思う。

 

思うっていうのは、断言したくないだけだ。なので、そういう言い方をしている。

 

孤独感と寂しさがヤバい。独身の32歳の男性が、友達や伴侶を得られずにそう感じている。

 

街中を歩いている家族連れやカップルを見ると余計に疎外感を持ってしまう。寂しさと情けなさを感じてしまう。

 

同性の友達と歩いている人達を見ても、羨ましさを感じている。

 

キツい。

 

けど、そのときに僕は強いて気をつけていることがある。

 

心の中で、相手を祝福する。これだ。

 

妬んで恨んで呪うと余計に心が歪むような気がしてイヤなんだ。

 

勿論、心に寂しさ羨ましさ情けなさを感じたまま祝福するので......。

 

イメージとしては、おにゅう氏・ピノキオ氏による初音ミクのオリジナル曲『祝ってやる』みたいな心情で祝っている。一人ぼっちで寂しい人間なんて、せめて他人の幸せを祝えなければ、少しでもマシになれないじゃないかと。

 

慈悲の瞑想みたいなものかな。嫌いな人は嫌いなままでいいから、嫌いな人の幸せも祈れるようになりなさい、というやつ。

 

それは自分が少しでもマシな存在になるために行う。他人のためじゃない、自分のためだ。

 

自分に自信がない。

 

友達作りのためにどこかの集まりに参加なんて恐くてできない。

 

おかげですっかり一人行動に慣れてしまった。

 

一人焼肉だって楽勝だ。孤独のグルメ気分で楽しんでいる。

 

日月神示には「因縁の身魂には苦労に苦労をさして磨いている」と書かれているけれど、これはきっとそういう苦労ではないだろうな。孤独感や寂しさが自分を磨くだろうか? むしろダメにするだけなのでは?

 

自分を成長させる苦労もあるかもしれないけど、自分をダメにする苦労だってあるでしょ。僕は、苦労は買ってでもしろなんて言葉は子供の頃までしか信じなかった。買わなくていい。求めなくていい。苦行は無駄だとお釈迦さまも仰っている。

 

自己肯定感が低くなっているのを感じる......。

 

せめて、自分と他人の幸せを祈れる人間になろう。少しでもマシな存在になりたい。

 

まあ、以前それを心の中で実践していたら突然耳元に「うるせえよ」って声が聞こえてきて驚いたのだけども。

 

言われた方向を見ても誰に言われたのかわからないし、そもそも口に出してはいなかったのだけど。ナチュラルに心霊現象に遭遇したよね。耳元に直接話しかけてくる霊は低級霊だからそのままスルーしたよ。

 

 

 

 

しかし......。ここまでいまの自分の心境を書いてみて気づいたこともある。

 

いまの俺、自己肯定感低くない?

 

この問題、自己肯定感を高めれば、自分にとっては問題ではなくなるのでは?

 

筋肉をつければたいていの悩みは解決すると言われているように、自己肯定感にもそういうところはある。自己肯定感は心の筋肉だと個人的には思っている。

 

自己肯定感を上げる秘訣は、自分を褒めまくること。褒めているときは、自己批判はしないようにすること。

 

ほめ日記のように、ノートに一日10個ほど自分褒めを書き出すのも効果的だ。

 

けど、面倒くさいんだよね。やりたくない。

 

ここのところ、自分はまだまだだという思考が脳内を占めていた。この一週間くらいはそうした思考は捨てて、自分を褒める方向にチェンジしたほうがいいのかも。

 

例えばこの前作ったタコヤキは、市販品の電気タコヤキ機を用いたのだけど。タコヤキ穴が小さかったせいで、お店で売られているような出来にはならなかった。しかし、美味しくできたのだから「よくできた」と自分を褒めていい。「どうしてもっと大型のタコヤキ機を買わなかったのか」とかは言わない。

 

うん、もっと自分を褒めたほうがいいのかもしれない。

 

でないと病んでしまう。よくよく考えてみれば「羨ましい他人の幸せを祝福できたら、自分は少しでもマシな存在になれる気がするんだ」とか病んだ人の台詞だろこれ。

 

僕は僕に対して、いつも批判ばかりを浴びせていたな。そりゃ元気をなくしてしまう。そうしないと自分がダメになると思っていたとはいえ......。それも自己肯定感が低い人の特徴らしいね。

 

自分は頑張っていると認めていい。そのことを褒めていい。自分で自分を認めていい。そのはずだ。