昔の話になる。
夜。就寝しようと床に着いた。
突然、全身から「存在を許された」感覚がした。
それはそれは強力な感覚だった。
自分は許されたんだと瞬時に理解するほどだった。
世界に許されたという圧倒的感覚に支配された。
このとき。俺の脳内には一人の人物が思い浮かんでいた。
イエス・キリストである。
当時、俺はイエス・キリストを個人的に拝んでいた。
別に教会に行っていたわけではない。ただ新約聖書を読んで、キリストに手を合わせて救いを求めていただけのことだった。俺はキリスト教徒ではない。神社仏閣に行って他の神仏も拝んでいたのだから。
暗い人生のなか、現代日本人によくある無宗教的価値観のもと、藁をも掴む思いで救ってくれそうな神仏に当時の自分は手を合わせていただけのこと。その中にキリストもいた。それだけ。お粗末甚だしい話である。
その程度のご縁で。どうしてか知らないけれども。
なんかもうあり得ないほどの感覚を与えられた。
有り難い感覚とも言えようか。ありがとうの語源である有り難しの体験だった。存在そのものを許されたと確信した。(たぶん、熱心なキリスト教徒の人にはあるあるの体験だと個人的に思う)
その許された感覚というものがイエス・キリストによって与えられたものなのかは定かではない。しかし、あれほどの感覚を与えられる存在はイエス・キリスト以外にはないのではないかと思う。許すことに関してキリストの右に出る者はいない。今でもそう思う。
それ以来、キリストを拝むときは感謝の気持ちを伝えるようにしている。まるで親鸞聖人の阿弥陀仏信仰のようだと思うけど、俺の場合はキリストなんだ。でも寝る前には南無阿弥陀仏を三回唱えてから就寝している......。許して。
たったそれだけの体験だった。別にキリストの姿を見たとか、光に包まれたとか、そういうことは一切ない。
けどね。それで気づいたこともある。
俺は俺の存在を許せていない、ということだ。
キリストは俺のことを許してくれた。
もう自分を罰する必要はない。
しかし、それでは足りない。
結局は俺が俺を許さない限り、俺はラクにはなれない。キリストが俺を許しているのはわかった。けれど、キリストほどの存在から許されたとしても、最後には自分が自分を許さないと救われないのだと理解してしまった。
日月神示に書かれていたことを思い出すよ。地獄に自分を連れていくのは自分なのだと。閻魔ではなく己が己を裁くのだと。
いくらキリストが子羊を安全な柵のなかに戻しても、子羊が再び柵から出てしまうのでは意味がない。自分を許さないことはキリストの差し伸べる手を払うことと同じなんだと思った。
自分を許すって難しいんだよね。本当に難しい。けど、キリストが許す俺なら許せるかも。以上、終わり。