ななころびやおき

気の向いたときに趣味で投稿します。ゼロ戦は21型が一番好き。

最近、感謝することが増えた

最近、感謝の気持ちが湧いてくることが多くなっている。

 

別に感謝しようとか意識しているわけではない。

自然と気づきがあって感謝の気持ちが湧くのだ。

 

「自宅の水道の蛇口から水が出ているけど、これってじつは凄いことなんだよな」と気づいてありがたみを感じる。

 

「バスが出ているけれど、200円ちょっとで遠い場所まで連れて行ってくれるのって凄いよな」と気づいてありがたみを感じる。

 

「仲の良い両親がいてくれて心地が良いって幸せなことだよな」と気づいてありがたみを感じる。

 

当たり前のように思っていたことに感謝を感じている。

 

なぜだ? 何がきっかけだ?

 

俺はこれまで不平不満や愚痴泣き言などを吐き出していた人間だぞ? それは以前から書いてきた記事でも明らかなはず。

 

きっかけに心当たりがあるとすれば、悪縁切りのために出雲大社相模分祠とか豊川稲荷東京別院とか野毛山不動尊に行ったことくらいだ。もしかして、意図していないことだけど、愚痴吐きな自分との悪縁も切ってくれた……?

 

感謝していて気づいたことは、感謝は人の心を清めてくれるということ。人の心が獣の心にまで堕ちないようにしてくれているということ。感謝は人を人にしてくれる。

 

当たり前のことの凄さや幸せに気づいて自然と感謝している。

満ち足りている感覚だ。足るを知るとはこういうことなのだろうと思える。

 

いまが不幸でも感謝することはできる。感謝すると心は満ち足りる。

 

不思議なことだ。絶対に自力でこんな心持ちにはなれない。神社仏閣参りをしたときのいずれかの神様仏様が導いてくれたとしか思えない。

 

思えば、こうするのが最善とわかっていても気持ちの問題で行動に移せないとき、神社仏閣に参拝すると行動できる気持ちになって。実際に行動できたこともあった。解決もできた。神様仏様は心のスペシャリストなのかもしれない。

 

悟りなんて自力では開けない。人の喜びを糧とすることから人の願いを無差別に叶えるとされる第六天魔王を信仰しようかと思うような、俺はそういう人間だ。一生モノの信仰を決めることはカジュアルにはできないことなので、流石に思っているだけだけど......。

 

悟りを開けばラクになれると思って憧れていたけれど、最近では悟りに価値はあるのかと思っている。俺にとっては悟りは不必要なのではないかと思ったりしている。

 

感謝しようと思って感謝しているわけではない。自然と当たり前のことの凄さに気づいて、感謝せざるを得ないようになる。感謝するしかなくなる。

 

なんでこうなったのか。わからない。俺の心に何が起きているのだろうか。

 

いや、誤解しないでほしい。いまでも俺は不平不満もあれば愚痴泣き言も言う。怒りを感じる時もある。それだけではなくなってきていて不思議だということだ。

 

小林正観の本を読んでも感謝に目覚めなかった俺が。

斎藤一人の言霊の話を聞いても愚痴泣き言ばかりだった俺が。

ニール・ドナルド・ウォルシュ著『神との対話』を読んでも娯楽として楽しんで終わった俺が。

 

ダメな自分との悪縁が切れてきているとしか思えない。

 

不思議だ。でも良い気持ちだ。自分から積極的に感謝できることを見つけようと思わせてくれる。新しく得るばかりが幸せではないのだと。いまある良いことに気づいて感謝の気持ちが湧くことも幸せなのだと。

 

幸せは快楽にしかないとは限らない。したがって快楽を渇望しなくてもいい。快楽を求めてもいいけど、そこにしか幸せがないというのは不幸な思い込みなのだろう。

 

昔からイギリスのネルソン提督のことをかっこいいと思っていた。

 

何がかっこいいって、祖国防衛のための一世一代の大海戦に出陣して、敵の銃弾に撃たれて死ぬ際に自分の役目を果たせたことを神様に感謝して死んでいったことだ。

 

彼はイギリスを守り抜いた英雄だ。生き残っていればその後の人生はどれほど明るかっただろうか。しかし、彼はそのことを悔いるでもなく、やるべきことをやれたとお礼を言って死んでいった。そこがかっこいい。誠があるな、と思う。

 

俺にはできない死に方だと思う。いま死んでも絶対に成仏できる気がしない。死後に阿弥陀様が迎えにきたとしても未練でその場に留まってしまうと思う......。

 

求めないなんて生き方はできない。無償無条件の愛なんて不可能だ。悪縁を成長の糧にすることもできずに悪縁切りを決意した人間だから。けれど、せめて感謝できることにひとつでも多く気づいていけたらいいと思っている。そのほうが人生は豊かになるような気がしている。

 

明日には180度変わっている考えかもしれないけれどな!!!! よし、焼肉食べにいこう!!!! あ、でも焼肉屋で出てくるお肉も畜産農家の皆様が懸命に牛や豚を育ててくれて、それを捌いて出荷して運搬してくれて調理した人達がいるからある程度の値段で簡単に食べられるんだよな......。このお肉一枚作るのにどれだけ苦労するんだろうとか思うと、いま俺は凄いものを食べている気持ちになる。本来の意味でのご馳走を食べている。俺一人の力ではこんなものは用意できない。やろうと思えば地獄のように大変だ。ありがたいなぁ。......はっ!?

 

という感じの思考に、マジで最近よくなるのです......。